推薦者

遠藤水城(えんどうみずき) 遠藤水城(えんどうみずき)
キュレーター。ARCUSディレクター。
2001年よりrhythm名義で雑誌刊行、ライブ、展覧会、映画上映会等を展開。2004年、「art space tetra」を福岡に設立。2005年、「Future Prospects Art Space」をマニラに設立。同年イタリアにて「Lorenzo Bonaldi Art Prize」受賞。「Singapore Biennale 2006」ネットワーキング・キュレーター。2007年、Asian Cultural Council助成により米国に滞在。

<推薦作家/作品>

推薦作家;エイドリアン・パチ 「believe me I am an Artist」, Second Planet 「THE FUTURE FOR ART MUSEUM / FORTUNETELLERS PROJECT」

今回、選者を務めるにあたりまず考えたのは、最後まで面白くみてもらえるかどうかということ、つまり展覧会やホワイトキューブという「文脈」や「器」をなくしても内容だけで成立するかということ。僕としてはどちらも笑いながら観てもらいたいところです。

それから僕はキュレーターという職業をしているので、最低限のモラルとして、自分が本当に相手を信用していて、相手も僕を信用してくれているという実感が大事です。たとえ映像だけ送ってもらうような今回のようなパターンでもその矜持だけは守ろう、と。僕は福岡を拠点に活動していたことがあるので、北九州在住のSecond Planetのお二人を良く知っている、というかイヤってくらい一緒に焼酎を飲んでる(ちなみに作品のマニラの部分は僕が撮影を担当してます)。それからエイドリアンは、今年ACCのグラントでサンフランシスコに3ヶ月間滞在していたときに知り合って仲良くなっている。僕は何度も彼に「あんたほんまおもろいなー」と絡んでました。

さて、本題。

この二つの映像は、どちらも「二人」と「カメラ」によって成立している。

「占い」も「尋問」も狭い密室のような部屋で行なわれるところにまず共通性がある。でもそれ以上に、そこには、占いをするものとそれを聞くもの、尋問する側とされる側という絶対的な非対称性のうちにある「二人」がいる。そして「カメラ」はこの状況の中に貫入している。

この二人のうち、どちらがこの作品の「作者」なのか。

あるいはカメラの背後にいるものが「作者」なのか。

ここでは「作者」という位置の不在化ないし抹消が発生している。Second Planetはこの作品を作る際に世界中の友人たちに「金沢21世紀美術館の22世紀を地元の占い師に占ってもらってよ!」と頼んでいる。つまり彼らは自分たちでカメラをコントロールして作品化することをはなから放棄している。エイドリアンになると事態は徹底していて、一体どうやって入手したのかわからないけれども、彼が警察で受けた尋問の監視カメラ映像そのものが作品化されている。映像のなかにいる彼は作者であって作者ではない。現代美術の展覧会で展示されている数多の、凡百の映像作品が精緻に、美しく、アートらしく、作者によってつくられているのとは対局の地点にこれらの作品はある。

この態度によって、どちらの作品もアートの外部からアートそのものの存立を問うという行為が必然的に含みこまれている。アートが「ある」ことになっていて、しかもその存在理由や背景を徹底的に問われないままにそれが「いいと言われている」からと無根拠に消費されていくこの現状のなかで、その最悪の地点にあるこの横浜や東京という場所でこそ、これら二作品を僕は展示したかった。それ以上に僕がこの「オビラ2」で考えたかったのは「ビデオ」という「二人称の世界」がしっくりくるメディアは、それ自体としてはアートの外部にあって、本来的にアートのメディウムに入れ込むべきではなかったのではないか、という若干ややこしい問題なのだけれども、紙幅が尽きたのでこのへんで。

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